圓泉寺(円泉寺)は文禄4年(1595)、賢恵大和尚によって現在地に開創されたと伝えられていますが、その草創はさらにさかのぼり、遅くとも南北朝時代末期(〜1392)のころには、太子堂ならびに小堂圓泉寺{円泉寺}の前身・円泉坊)が結ばれていたものと推察される。圓泉寺(円泉寺) (周辺には、鎌倉時代の口承も多く、郷土史家の研究によると、太子堂村の初期的な集落は「鎌倉時代から南北朝時代に形成された」といわれている。この集落の形成と同時に聖徳太子像が安置され、別当として円泉坊が草創されたとみるべきである。かって別当をかねていた太子堂村の鎮守・八幡神社もこのころの勧請とおもわれる。言い伝えによると「賢恵僧都が大和(奈良県)の久米寺から聖徳太子像と十一面観音像を背負って関東に下り、文禄4年(1595)、当地に一泊したとき、夢の中に聖徳太子が現れて、この地に安住することを告げたので、十一面観音像を安置する本堂と、聖徳太子像を安置する太子堂を建立した。いらいこの地が拓かれて太子堂村と呼ばれるようになったといわれている。
真言宗豊山派   本尊 大日如来
 

円泉寺の寺宝 不動明王

不動明王は、像高49.5糎。寄木造で、江戸時代の作と推察されます。

像容は、頂蓮をいただき左肩に弁髪をたらした忿怒形で、猛炎を

背負い右手に利剣、左手に羂索を持ち、左足を踏み出して岩座の

上に立っておられます。脇侍として矜羯羅・制吁迦の二童子を従

えた、いわゆる三尊形式の尊像です。

 

円泉寺の寺宝 十三仏

仏教では、人間は三界と六道に生死を繰り返す(輪廻転生)と考えられ

死者は冥界(仏の世界)で順次十人の王の裁判を受け、

ゆくべき世界が定まるとされています。やがて十王には本地が定められ、

十三仏が成立して人々の救済にあたるとされるようになりました。

 

円泉寺の寺宝 観音像

観音像は、阿弥陀如来の化仏をいただく宝冠をかむり、

身に条帛・裳をまとい、天衣をつけ、胸飾・腕輪・瓔珞などで身を飾り、

結跏趺座して蓮華座に座っておられます。

像高36.2糎。寄木造で、江戸時代の作と推定されます。

 

円泉寺寺宝 観音像

寛政3年の造立で、縁日本尊として広く庶民の信仰を集めていました。

昭和43年5月21日に三軒茶屋地区から境内に遷座され、

深い信仰が寄せられ続けています。

玉川六地蔵の第四番の地蔵尊です。

 

円泉寺太子堂会館

御葬儀、御法要から祝事、御式典まで幅広い御利用ができます。

◆施 設 … 式典ホール 約100名(椅子席)他、霊安室、僧侶控室、親族控 室 等

◆収容数 … 1階椅子席約100名(厨房有)
        2階和室約100名(別室有)

                                 

        オリジナル祭壇 

         葬儀の事は                                   

 

  

        
 お花を贈りたいとき ご利用できます

      供花の事は

 

真言宗の教え

真言宗でいちばん大切なことは、さとりです。私たち衆生の菩提心を開顕することがさとりであり、真言密教では即身成仏ともいっています。
さとりは、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」(『大日経』)という、いわゆる三句の法門で示されます。
菩提心(菩提すなわち心、また菩提を求める心)はみずからのさとりのためのもの(自利)、大悲は他の救済のためのもの(利他)、方便は自と他とのためのもの(自利利他窮満)とされています。
手に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心を三昧の境地におく(意密)三密行を実践することによって、修行者の身・口・意の三業は、自然に仏の身・口・意の三密にまで高められ、その身が成仏する(即身成仏=さとり)ことができるのです。

真言宗の焼香のマナー

  1. 祭壇に進み、遺族に目礼し、故人の遺影に向かって一礼します。
  2. 一度合掌します。
  3. 親指、人指し指、中指で抹香をつまみ、目の高さぐらいまでに持ち上げます。
  4. 抹香を香炉の中へ落とします。(3回)
  5. 改めて遺影に向かって合掌します。
  6. 一歩下がり、僧侶と遺族に一礼し、席に戻ります。
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